12 2021.02.19

数百人のテストに
受かったうれしさ

連載「素顔の選手《REDSげんき》」

episode1サッカー少年の僕が影響を受けたJリーグ #04
汰木 康也(ゆるき・こうや)24 MF

REDSDENKI

サッカーは幼稚園からやっていて、その頃は友達とJリーグの話をしたことも、試合に連れて行ってもらった覚えもありません。
地元のサッカークラブに入っていて、他にもサッカーの技術を教えてくれる塾と、小学2年生のときには横浜F・マリノスのサッカースクールにも通ったんです。それがJリーグとの出会いですね。


© urawareds

キドキして待っていた合格の電話

小学3年生になってマリノスのプライマリー(小学生チーム)に入ったんですが、そのときに数百人が受けるテストがあったんです。たぶん神奈川県内のマリノスのスクールに通っている小学2年生がみんな受けたんだと思います。
一斉にみんなでリフティングして、落とした人はその場に座る、というようなテストから始まって、日を替えて3次テストまでありました。3次テストまで残ったのは十数人だったと思います。そこから最後は6人まで絞られました。
数百人の中で6人に選ばれたのはうれしかったです。合格の人には電話がかかってくるんですが、何時から何時の間に電話がなかったら不合格、ということなので、その日はムチャクチャ緊張して、ドキドキして電話を待っていました。そのテストをクリアしてからマリノスというチームを意識するようになりました。

合で対戦しないからレッズを知らなかった

Jリーグの試合を見に行く機会が増えたのもそれからです。プライマリーのみんなで日産スタジアムに行くんですけど、スタンドの最上段からだったからピッチまですごく遠くて、どことの試合だったとか内容とかも覚えていないんです。点が入ると前の人たちは立って喜ぶし(笑)。ただ観客の多さに驚きました。「プロはこんなところで試合するんだ!」と。
プロになりたいと思うようになったのは、マリノスのプライマリーに入ってからですね。世界がいっぺんに変わりました。自分はマリノスの一員なんだというプライド的なものが徐々にできていきました。そしてトップの試合を見るようになって、プロへの意識が高くなっていったと思います。
ただ他のチームはどうかというと、存在を知っていたのは自分たちが試合で対戦する小学生チームなんです。だからヴェルディ、レイソル、グランパスはすごくライバル視していましたけど、レッズにはその頃小学生チームがなかったからほとんど意識していなかったというか、レッズを知らなかったです。

ロが近くにいる環境は大事

子どもの頃は、サインをもらうのがすごくうれしくて、サッカー塾に通っているときに、外国の選手が来てサインをもらったりしました。
マリノスのスクールかプライマリーに井原(正巳)さんが来てくれたことがありましたが、その頃井原さんのことは知りませんでした(笑)。家に写真があって、後で井原さんがすごい選手だったことを知りました。中村俊輔選手が来てくれたこともありました。
小学5年生のときに、練習場がマリノスタウン(みなとみらい)に移動して、トップの選手たちと同じになったんです。ロッカーも隣でしたから、そのときも意識が大きく変わりました。Jリーガーが近くにいるという環境は、子どもたちにとって大事だと思いますね。
いま僕は、サッカーをやっている子どもたちと触れ合う機会は多くないですが、そういうときがあれば、プロに興味を持ってもらえるような振る舞いをしたいと思います。

ッズ戦でボールパーソンをやり「カッコいいな」

レッズに関して言うと、マリノスのジュニアユースでボールパーソンをやったとき、日産スタジアムでのレッズ戦のレッズサポーターに驚きました。原口元気選手が新人でいっぱい試合に出て活躍していました。そのときに浦和レッズというクラブに「カッコいいな」という気持ちを抱いたんです。
マリノスでプロになるのが第一の目標でしたけど、高校3年生のときにトップに昇格できないと言われて、「だったらレッズに入りたい」と思いました。すぐにはかなわなかったですけど、いま僕がこうやってレッズでプレーしているのは、あの中学生のときの気持ちが現実のものなったということですね。

汰木 康也/1995年7月3日、
神奈川県横浜市生まれ

取材・文/清尾淳

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中澤佑二選手の顔入りTシャツを着ていました