57 2023.1.31

濃い時間だった
ジュニアユース時代
ノブさんとの出会い
が一番の宝物です

連載「素顔の選手《REDSげんき》」

Episode4 ぼくの宝物
関根貴大(せきねたかひろ)14 MF

REDSDENKI

「世界を目指せ!」とずっと言われ続けていた

僕は中学1年生のとき、浦和レッズのジュニアユースに入ったんですが、その前の年、小学6年生のときに、レッズのスカウトに誘われてジュニアユースの練習に参加しました。そのとき、エネルギッシュなコーチがいるなあ、と感じたのがノブさん=池田伸康さんでした。
ノブさんの存在はそれまで全く知らなかったです。レッズでJリーガーだったということも知りませんでした。僕自身、それほどレッズに詳しくなかったですから。
翌年、僕がジュニアユースに入ったとき、ノブさんが中学1年生の担当でした。
最初に言われたのは「サッカーに関しては、世界を目指せ。日本だけで収まるな」ということです。それは最後までずっと言われ続けていました。
勝負へのこだわりも、すごく強調して言われた印象があります。だからミニゲーム一つ取っても負けたら、悔しくて泣いていましたし、練習が終わったら泣くやつは結構いました。それだけ勝負にこだわっていましたから。


ジュニアユース監督時代の池田氏(2010年)
© J.Seio

和レッズを背負って戦う責任感を植え付けられた

浦和レッズということに関して一番印象的だったのは、僕らが試合に負けてヘラヘラしていた時に「お前らが背負ってるものは何だと思ってるんだ。そのエンブレムをつけてる以上、プライドを持って戦え」と言われたことがあって、それからみんなちょっとずつ意識は変わっていったと思います。そのころ、大宮アルディージャがJ1にいましたから、特にさいたまダービーには負けちゃいけないとか。そういう気持ちの部分を一つひとつ教わりました。
「浦和レッズを背負って戦ってるんだぞ」と言われたのは、すごく印象的でした。だからジャージとかエンブレムの入ったものを着て電車に乗ったり、自転車で走ったりしているとき「お前らは見られてるから、それを意識して行動しないといけない。ただの中学生じゃないんだよ」ということも強く言われてました。だから、それは気にしていましたし、お互いに注意し合っていました。
腕白坊主もいましたし、僕も「いい子」ではなかったですけど、浦和レッズという戻る場所があったので、真っ当な道から外れることはありませんでした。その雰囲気作りをノブさんはしてくれてたなと思います。


相手のキックをスライディングで止める関根選手を見守る池田監督(2010年)
© J.Seio

も固い結束の19人、求心力はもちろんノブさん

僕らの代は19人いたんですけど、みんな同じ気持ちだったと思います。
僕らの代は3年間、途中でレッズジュニアユースを辞める選手が一人もいなかったんです。今はどうか知らないですが、誰も辞めなかったのは歴代で初めてだったらしいです。
それはノブさんの求心力が大きかったと思います。僕らが1年生のとき、ノブさんが1年生担当コーチで、それまでは2年生になったら2年生担当コーチ、3年生になったら監督が3年生担当コーチとしていましたから、毎年指導者が替わっていたんですが、僕らの代は2年になっても3年になってもノブさんが持ち上がりで担当してくれたんです。僕たちが選べるわけではないですから、ノブさんが希望してくれたのか、クラブとしてそういう方針に替わったのか、それはわかりません。しかし、ノブさんに3年間見てもらえた僕たちは幸せだったと思っています。
選手によって試合に出られる、出られないという違いはありましたけど、辞めようなんて考えにならなかったと思いますよ。練習はすごく楽しかったし、充実感はすごくありました。僕は内気な方だったんですが、そういう選手が殻を破って成長していけたというか、そういう雰囲気を作ってくれていましたから。
だから今でも結束は強いですよ。去年の年末にアカデミーの「蹴り納め」があったんですが、僕らの学年が一番たくさん来たんじゃないですか。19人中13~14人は来てましたから。来られない奴も、事情があってどうしても、という感じで食事会のときはテレビ電話で話してました。ノブさんももちろん来てくれていました。


中学3年生の関根選手(2010年)
© J.Seio

3のときの約束、そろそろ果たしたい

僕らの代って一度も全国優勝していないんですが、Jリーガーになった選手は多くて5人います。J1だけでも僕を入れて3人いますし(戸嶋祥郎=柏レイソル、広瀬陸斗=鹿島アントラーズ)、Jリーグ入りを目指すクラブで頑張っている奴もいます。
中3の夏の全国大会で負けた後、僕はチームメートの進昂平(しん・こうへい=AC長野パルセイロ)と2人でノブさんのところに行き、「僕たち必ずJリーガーになります」と宣言しました。そしたらノブさんは「よし、俺も必ずJリーグのクラブの監督になる」と約束してくれました。
今年からノブさんはレッズのトップチームのコーチになって、いま一緒にやっています。あの人にはずっとアカデミーにいて、後輩たちを教えてあげてほしいという気持ちもあるんです。それが天職だと思うので。
でもノブさんも「僕たちとの約束を果たす」と言って、トップに上がってきてるんで、いつかレッズの監督になってもらって、2人で一緒にタイトルを獲りたいです。もちろん、今季も優勝を目指していますけど。


© J.Seio

ッカーよりも大切なものを教わりました

ノブさんにサッカーを教わった記憶はあまりないんです(笑)。
だって「キーパーまで抜いてけ!」としか言われてないですもん(笑)。じゃあドリブルを教わったかというと、そういう記憶はないし、シュートを教わったこともそんなにないです。ノブさんも言ってますからね、「俺には戦術なんてなかった」って。
それより大事なものを数多くもらいました。あの人から放たれているエネルギーというのは、伝染するなってすごく感じます。本当にあの人との出会いが一番の宝物ですね。
僕は今年27歳ですけど、人生で戻れるとしたら中学生時代に戻りたいなって思います。やり直したいんじゃなくて、あの3年間は一番濃い時間だったので、もう一度過ごしたいんです。


© URAWA REDS

れまで履いたスパイクと交換したユニフォームも

アイテムで言うと、これまで履いたスパイクでしょうか。
2017年からスパイクに名前を入れてもらっているんですが、毎年デザインが変わるのでそのたびに一足は必ず思い出として取ってあります。実家に置いてあるんですけど、もう相当たまっていますね。
2017年というと、僕が初めて海外(ドイツ~ベルギー)に行った年なんですよね。スパイクを見れば、そのシーズンのことを思い出せますから、ずっと取っておこうと思っています。 もう一つは試合で交換したユニフォームですね。最初に交換したのは、海外に行く前のさいたまダービーで、大宮の大山啓輔とです。日本に帰ってからは鹿島の広瀬陸斗、ヴィッセル神戸の汰木康也ですね。みんな同い年なんです。
ユニフォームは自宅にあります。そろそろ飾ろうかなって思ってます。


© URAWA REDS

※注:池田伸康(いけだ・のぶやす)1970年、旧浦和市出身。1993年、早稲田大学から浦和レッズ入り。攻撃的MF、FWとして7シーズンプレーした。その後、川崎フロンターレ、水戸ホーリーホックに移籍し、現役引退後はレッズに復帰した。浦和レッズ・ハートフルクラブのコーチを皮切りに、2006年からアカデミーの指導者として活動。ジュニアユース、ユースの監督も歴任した。途中、トップチームのコーチに転じたこともあった。2023シーズン、トップチームのコーチに就任した。

関根 貴大/1995年4月19日、埼玉県鶴ヶ島市生まれ

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2023年2月15日(水)23:59まで